霊雲院について

霊雲院と遺愛石

霊雲院は明徳一年(一三九〇)に傑僧岐陽方秀によって開かれ、はじめは不二庵と称していました。大七世の湘雪守沅は、肥後熊本の人で、藩主細川忠利(三斎の子)と親交があり、その子の光尚は湘雪和尚にあつく帰依されていたのです。和尚が霊雲院(不二庵)に住職される時、寺三五百石を贈ろうとしましたが、「出家の後、禄の貫きは参禅の邪鬼なり。庭上の貴石を贈はらば寺宝とすべし」と申されたのです。そこで細川家では「遺愛石」と銘をつけ、須弥台と石船とを作っておくられたのです。これが遺愛石なのです。本院は幕末に勤王僧月照忍向と西郷隆盛が密議を交した維新の一齣を持ち、日露戦争中はロシア人捕虜収容所にもなった歴史をも持っているのです。

九山八海の庭(霊の庭)

書院前庭は遺愛石のある珍しい庭として、江戸時代中頃に出版された「都林泉名勝図会」に紹介されていましたが、第十六世景峰和尚の熱望に依り、近年、重森三玲氏が修復され、庭本来の木目を取り戻しました。これが「九山八海の庭」(霊の庭)です。庭中央の遺愛石が、魏々として聳えて、人後滅し、誰一人として窺い知ることのできない須弥山です。それを取囲む白砂の律動的な砂紋は、九山八海を表現して、仏説の宇宙世界を象ってます。「九山八海」とは須弥山世界(仏説に此の世界は九つの山と八つの海からなりその中心が須弥山世界だという。)ともよばれ、「俱舎論世間品」によると、仏を中心にした壮大な世界だといいます。数多い名庭の中で雑去玄求のある禅底として高く評価されています。

遺愛石

茶室 観月亭

下に四畳半席、上に五畳半席の日本にも数少ない二階建の茶室です。太閤秀吉の北野大茶会当時のものを移築したもので、桃山時代の清明な茶風が偲ばれる好個の茶室です。殊に五畳半席は、眼下の「臥雲の庭」の悠然と湧く雲上に喫茶する無心の境地へと誘います。

観月亭

臥雲の庭

小書院の西から、茶室観月亭にかかる庭を当院の寺号霊雲を主題にして「臥雲の庭」とよびます。空をゆく雲はゆうゆうとして来たり、ゆうゆうとして去ります。何にわだかまるでもなく、ただ無心に、水は谿間を流れます。その雲や水に美しさと美貌を感じるのが人間です。峨山渓谷より流れ出る水は、山腹に湧くのか、一瞬、雲が赤く輝やきます。流れる水はやがて大海へと帰ってゆきます。雲は山腹を無心に包んでゆきます。この庭は雲の描く美しさを、鞍馬砂や、白砂の砂紋や、枯滝組で現わしています。庭の面積は広くありませんが、「雲無心而出岫、水盈科而或流」の禅語を心として、明るく現代的に表現しています。

臥雲の庭

勤王僧月照忍向

幕末の勤王僧。清水寺の成就院住職。俗名は玉井忍向。志士らと結び、寺を弟に譲り尊王攘夷運動に身を投じた。安政の大獄の危険が迫り、西郷隆盛と鹿児島へ逃れた。薩摩藩に滞在を拒否され、西郷と錦江湾に入水自殺をはかり西郷だけが助かった。墓は東山区清水寺と鹿児島の南林寺。清水寺境内に辞世碑がある。
1813(文化10)年~1858(安政5)年

西郷隆盛

明治維新の指導者。薩摩鹿児島藩の下級士族の出身。通称を吉兵衛、吉之助、号は南洲。藩主島津斉彬(なりあきら)に取り立てられ江戸詰となり、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動に東奔西走するが、井伊直弼大老就任とともに始まる安政の大獄で幕吏の追及を受け、僧月照とともに帰藩。西南戦争を起こし、敗れて明治10年9月24日城山で自刃(じじん)した。51歳。

この場所(部屋)で勤王僧月照忍向と西郷隆盛が、幕府の追手から逃れる為に何度も密談を交わしたとされている。
(部屋は平成25年度に再建築されている)